王工 吉三会

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王工の校章の歴史(ネットから検索転載しました。)

王工の校章の歴史

◆この文章は
「創立30周年記念誌」より抜粋したものです。
 【戦後徽章の制定を中心に】
  記・元教諭 岸田幸雄

都立王子工業高等学校の現在の校章は、
機械工作に使う定盤をややななめにしたものを2つ組合せ、
真中に高等学校の「高」の一字を配したもの。


◆デザインは……昭和24年卒業・佐田実氏

はじめに
          
 私が本校にお世話になったのは、昭和19年の4月から昭和24年の3月までの5年間で、戦中、戦後の境目に当り、新しく6・3・3の学制が始った頃ですから、当時の思い出を述べながら、私も関係した徽章制定のことにも触れたいと思います。

 私を本校に採用して下さったのは、初代校長の野々山佐一先生で、たまたま先生のお住
いと私の家が近かったこともあって特別にお世話になり想い出も多いのですが、終戦までのことは他の先生方にゆずりましょう。


新制中学校への人事異動


 新学制への移行について、第一に想い出されるのは、都の方針が当時発足した新制中学校へ旧制中等学校の教師の半分以上が異動しなければならないということでした。これはわれわれ職員には相当なショックでした。それもそうでしょう。新制中学校といっても独立校舎があるわけでなく、どのように発展して行くのか皆目見当もつかなし、何も無理して住みなれた学校を後にして、わざわざ中学校へ行くほどのことはないということで大方の先生は腰が重かったというのが正直なところだったように思います。そのようなわけで自発的な申し出も少く、当時の高橋三郎校長もずいぶん頭を痛めた模様でした。遂に校長の考える候補者を内示されましたがこれがまた大きな抵抗に会いました。

 結局、新制中学校へ出られたのは私の記憶では次の方々でした。
 鈴木初美・稲見辰之進・君塚一衛文・大山勝・佐藤敬勇・小林正治(旧姓中島)・小林修の諸先生と私の計8名でした。今でもそれぞれの顔をはっきり思い出すことができます。


 この中で大山勝先生はすでに物故されましたが「王友」誌の旧職員の名簿からも抜けています。次号発行の節はぜひ載せてほしいと思います。

 とにかく新制中学校への人事異動のことはその時移った私共にとって忘れることのできない想い出です。後になって考えればその時出た方々はみな自分から積極的に転出された方々ばかりのようです。


生徒募集のこと


今でこそ本校への入学志望者の数は非常に多く選ぶのに苦労しておられるようですが、終戦直後は一般に普通高校にはかり行きたがって工業高校を志望する者がさっぱりなくなり、これではいかぬと生徒狩り集めに学校をあげて奔走した一時期がありました。


 中学校の先生たちを学校へ招いて説明会をやったり、街頭にボスターを張り出したこともありました。この時は私の専門が美術ということで瓦井教頭から一役おおせつかりました。何しろ物資の極端な不足の時ですから、ポスターも手描きよりほかはなく、いろいろ考えた未、型紙で張り込みが一番いい、それには型紙にはペナペナな紙では駄目で何かしっかりした紙はないものかと教頭に相談すると、瓦井先生も大乗気で「それではいい紙を持って来てやる」といって未だ使わない写真の印画紙の大判のものを提供してくれました。


 おかげでまあまあ見られるポスターができました。あとは手わけでボスター張りです。私は川口方面をひきうけましたが、寒風の吹きすさぶ日で電柱に糊で張ろうとすると、すぐ風に吹き飛ばされて、相当苦労しました。今でもその時の情景が目に見えるような気がします。


新制高校への移行


 当時私は勿論平教員でしたが、今にして思えば、新制高校への移行については特に管理者の方は大変なご苦労だったと思います。
 その頃私は、都の新制高校対策委員をしており、小石川高枝の成田先生(弟さんの方)を委員長としてずいぶん頻繁に会合を開きました。
 しかしその委員会で何を具体的にきめたかというと、どうもあまりよく思い出せません。そういうところを見ると私はあまり役に立っていなかったんだろうと思います。ただ新しい教育課程によって脚光を浴びたものの一つにホーム・ルームの間題がありました。

 当時このホーム・ルームについて積極的に取り組んだ学校に北園高校がありました。同校ではホーム・ルーム、ティーチャーへの所属を生徒の希望によって始めました。本校もこれを範としてやりましたが、いざやってみると、先生によって生徒の数に大きな差が生じてしまい、その調整に一苦労しました。

 そして仲問の間では「これからは生徒にお使い物をしなけれはならない」という冗談が交わされたのも想い出です。


飛鳥中学校のこと


 新制中学の発足と同時に、本校の一部に区立の飛鳥中学校が間借りで生れました。そこの初代校長が後の本校の三代校長となった沢畠美福先生です。

 私事で恐れ入りますが、この沢畠先生は私の先輩筋に当る方で、発足の昭和22年に先生から飛鳥中学校へ来ないかと私にお話がありましたが、私とすれば新制中学がどのようなことになるやら見当もつかなかったのでご辞退申し上げました。

 しかし2年後に再びお話があったので、その項はもう新制中学枝の将来もどうやら見当がついたので私は飛鳥中学校に転出いたしました。

 そして1年したら今度は沢畠先生が本校の校長としてお移りになってしまいました。つまり1年おいて入れ代るという不思議な運命になりました。

 当時の校舎は兵舎だったままの木造で、手入れはされず、壁は落ち放題、天井は突つ抜け、廊下は穴ぼこだらけで、窓枠はなしという状態で、廊下の穴ぼこに足を踏み込んで怪我をする者が出たり、天井がない為に、隣やそのまた隣の声がつつ抜けに聞えて来たり、雨の日は机を片寄せて勉強するという有様で、今の鉄筋校舎は夢のようです。
 徽章制定の苦心
  さていよいよ徽章制定のことてすが、これは編集者の方のご注文でもありますので、少々詳しく申し上げましょう。

 徽章といえば本校が旧制工業学校時代には全く別の徽章がありました。それは丸い形で縁が三重の輪になっていて、中に「王」と書いたもので、図案した方には誠に申訳けありませんが、あまり面白いものではなく、一度私は野々山校長に工業学校時代に図案を変えてはどうかと進言したことがあるような気がします。

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 しかし新制高校発足に伴い、「新しい徽章を」ということはごく自然に職員全体の要望になって参りました。

 この時も瓦井教頭から美術関係ということで私に骨折るよう言いつかりました。そこで職員会議で先生方とも相談して、まず斬新な図案を求めるために、生徒、先生から懸賞募集し、その選もそれらの投票によって決ることにいたしました。

 そこで私自身もいろいろ図案を考え、また他校の徽章も改めて研究しました。するとたいていの徽章が三角型、四角型(これは割合に少ない)、五角型・変型の4通りぐらいになることを知りました。そして丸型だけは避けたい、中の文字には『高』の字を持ってきたいと考えました。この2つは他の先生方も同意見のようでした。

 いよいよ応募した図案を集めてみますと、私が予想したよりその数は多くありませんでした。そして多少手直しする必要がありました。 私は全部の図案を描き直し、それに私自身の図案もまじえて公表しました。
 今度は投票です。投票が始まって困ったことが起りました。それは私がデザインした翼を拡げたょうな平凡で私自身気に入らない図案に生徒の票が集り出したことです。
 私としては今更引っ込めることもならず、私が秘かにいいと思うある生徒の作品に票が集まることを祈るばかりでした。

 一方生徒の方もこの投票には強い関心を示し、特に上級生が熱心で、生徒の佐田実君のデザインがいいではないかという声が盛り上ってきました。よくしたものでこの佐田実君の作品こそ私が秘かにいいと思っていたその作品なのです。
 結局、佐田君のデザインヘの票はうなぎ登りに増えて、先生方にも異存はなく、佐田君の作品に決ったわけです。

 この図柄は、機械工作に使う定盤をややななめにしたものを2つ組合せ、真中に高等学校の「高」の一字を配したもので、誠に簡明で、すっきりしており、先に申し上げた比較的少い四角型の系列に属するものです。
 本校の徽章制定には以上のような経過と苦心があったわけで、このことに関係させて頂いた私としては、何か私白身のデザインのような錯覚におち入り、愛着ひとしおのものがあります。

 今でも路上であの徽章をつけた本校の生徒に会うと、ちょっと声をかけたくなるような気持になる私です。
 当時、私が清書して生徒たちに示した作品一覧の図面は、長く拙宅に保存してあったのですが、この寄稿に当り家中を探しましたが、どうしても見当らずこの機会にお示しできないのが残念です。
 できたら佐田実君のポートレートでもご掲載頂ければこんな嬉れしいことはありません。

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